臆病者の夜更かしベーグル作り


やっぱりベーグルを焼こう。




何か作りたいなあと迷いながら、時間だけが過ぎていた。
ピンとくるものが浮かばなかったのである。


今日はもういいかなぁなんて思っていたけれど、抹茶パウダーが余っていることをふと思い出した。ホワイトチョコも入れたら美味しそうだと心がときめいてくる。


うん、やっぱり作ろう。




時刻は21時前。


もうお風呂にも入ったから、焦る必要はない。のんびり作りはじめることにした。




気がつけばいつも、「もっと早く」と何かに追い立てられるように生きていた。




子どものころ、母から「マイペースな子」とよく言われていた私は、のんびりとした性格だったようだ。
だからなのか、母を苛立たせることが多かった。どんくさく、何をするにも時間がかかるせいで「もういい!どんくさい子やね」と怒らせてしまう。当時はなぜ怒られるのかがわからなくて途方に暮れたものだった。



「遅いと相手を不愉快にさせる」という恐怖心は、「早くしなければ」という焦りに変わり、どんくさい自分を必死で隠すようになったのだけれど、それは同時に「普通」とは何かという苦悩のはじまりでもあった。


どれくらいのスピードで、どれくらいできるのが普通なのだろうか。



人によって違う不安定な基準は、そのとき周囲にいる人によっても変わる。確かにあるはずなのに、その実態がつかめない。わからない。そのことが混乱を生み、私をひどく不安にさせたのである。私はいつだって、確かな答えが欲しかった。




そんな考えに囚われていた私が、今やのんびりとパンを作れるようになったのだなあとしみじみする。ぷっくり膨らんだパン生地の愛らしさも相まって、悩みや将来への不安はあれど、今この瞬間の私は、確かに幸福なのであった。






抹茶生地にホワイトチョコを包み込み、芋虫のようになった不気味なそれを転がしながら、隣にいる夫を見る。




ここ数日、悩みごとを抱え寝つきが悪い夫は、ものすご~く暗い顔をしていた。




夫が辛そうにしていると、「私がもっとこうだったら」なんて考えが浮かんでは、何も出来ない罪悪感に苛まれる。申し訳なく思えてきて「ごめんね」と呟きそうになった瞬間、先ほど観たばかりのアニメ「ワンピース」を思い出した。




『あたしの人生に勝手にあやまらないで』




ナミというキャラクターの台詞である。




辛いことがあったからこそ得たものもある。その全部が繋がって自分になっている、だからあやまるな、と。


今、私は楽しいから、と。




誰のせいにもせず、自分の人生を自分の足で歩いている人の言葉だった。






今は、夫自身が自分の人生の価値を見失っていたとしても、夫の人生は果たして私から謝られるような人生なのだろうか。


そんなわけ、ないんだよなあ。




焼きあがったベーグルはお世辞にもきれいな形とは言えないけれど、そのいびつささえも愛らしい。




私は今を生きているのだと、都合よく解釈した言葉を自分に言い聞かせて、焼き立てを1つペロリと平らげたのだった。

臆病者と年パス



年間パスポート。


その施設を愛してやまない者だけが手にするという、常連の証―…。




「年パス持っているので」




人生で言ってみたい言葉の一つである。






臆病者で、出かけることへのハードルが高いうえに、無駄に旺盛な好奇心のせいで、同じところに行くなら、行ったことがないところへ行きたいと考える質。


行ったことがないところへ行くのは苦手だから、さらに出かけることへのハードルが上がる、という悪循環。






「行ってみたいところはたくさんあるし、同じところへ行くのはもったいない」






その考えが、己の完璧主義思考に拍車をかけて、時にお出かけが楽しめなくなっていたことに気がつくのには随分と長い時間がかかった。




「もう二度と来られないから、存分に楽しんで満喫しなければ」という強迫観念に駆られたお出かけが楽しいわけがないし、気軽に出かけられるわけがないのである。






それはお出かけに限らず経験に関しても同じで、突き詰めるというよりも、「より多くの経験」を追い求めてきた。いろんな花から少しずつ蜜を吸う蝶々のように、私の意識はふわふわと彷徨う。




「新しい経験をして立派な人間に成長しなければ」という思い込みのせいなのかもしれないし、元々の性格なのかもしれないし、その両方なのかもしれないが、私は一つのことに長く熱中したことがない。








年パスへの憧れはつまり、「一つのものに夢中になれる」ことへの憧れなのだった。








これまで「成長すること」「立派な人間になること」を人生のテーマとしてきた。


そうあるべきだと、皆がそう生きているのだと信じて疑わなかった。




何の気づきも得られないことは無駄だと思ってきたけれど、「楽しいから」という理由で時間を使うことは「ダメな人間になること」ではないらしい。




それならばと、私はついに、いつか欲しいと思っていた動物園の年パスを手に入れたのである。




…白状すると、なかなか買いにいかない私に痺れを切らした夫が買ってきてくれたのだけれど。













これがあれば他に何もいらない。


これがあれば生きていける。






そんな感情を私は知らない。






年パスは手に入れたけれど、きっと、これから先もそういう感情になることはないのだろうなあとも思う。






そんな自分をどこか欠けた人間だと思っていた時期もあった。


一つのことに熱中できないこと、夢中になれないことを恥ずべきことだと思っていたけれど、その捉え方が、たくさんある捉え方のうちの一つに過ぎないと知った。




私はこれからも「一つのことに夢中になれる人」に憧れながら、ふわふわ移ろいながら生きていく。


それも悪くないような気がしている。










夫が年パスをプレゼントするときに言ってくれた言葉。


「可愛い写真を貼って使ってくださいね」




私が選んだ写真は、なぜか免許証のコピーだった。


珍妙な表情の私が鎮座している年パスを見せるたびに、後悔は募る。

臆病者と型抜きクッキー


クッキー型の専門店が京都にあると知り、数年前に訪ねたことがある。


「sacsac/COOKIE CUTTER MUSEUM」という名前なのだが、お店の名前が「サクサク」であることに気がつくまでに時間がかかった。外国のお洒落な単語かと構えていたら、遊び心という粋なお洒落さであって、そのことに気がついたとき、ダサい凡人の私はそのハイセンスな感性に痺れた。


気づけたことが嬉しくて夫に得意げに話したけれど、夫の感情はさざ波さえ起こさず、その冷静さはすぐに私の目を覚まさせた。
気がつかない方がどうかしている。




さて、「いったいどんな型があるのだろう」「どんな型を購入しよう」と、それはもう大層ワクワクしながら訪ねたわけだが、辿り着いたときには、なんとお店は閉まっていた。型の種類の下調べばかりに力を注ぎ、重要な営業時間を調べていなかった。



さっさと向かえばいいものを、久しぶりの京都に浮かれ、ちんたら歩きながら寄り道をしまくった結果である。この時ほど己の計画性の無さを悔やんだことはない。


が、そのお洒落な空間に足を踏み入れなくてもよくなったと、ホッとしている臆病な自分もいたのだった……。






クッキー型を買おうと京都まで行ったことがあっても、型抜きクッキーを頻繫に作るわけではない。生地を均等な厚みに伸ばすことができないため、どちらかというと苦手である。



不器用な私のお気に入りクッキーレシピは、なんとも素敵な暮らしをYouTubeで発信されているChokiさんという方のチョコチップクッキーだ。アイスディッシャーですくうだけでお洒落なクッキーが完成する。何より味も最高に美味しい。



それを瓶に入れてストックすれば、気分はもう、森の可愛い一軒家に暮らす可愛いお嬢さんである。(?)
スプーン代用の我が家では、本家よりロックでクールなゴツゴツ巨大クッキーが出来上がるし、そのゴツゴツさはときに口内を暴れまわり負傷しかけるが、瓶に入れてしまえば全てまるく収まる。


瓶の魔法である。





魔法といえば、クッキー型にも人をときめかせる魔法がかかっている気がする。



可愛いのである。



見た目はもちろんだが、音も可愛い。
ステンレス製だろうとプラスチック製だろうと、型と型同士がカシャカシャと響かせる音を聴くと、おもちゃ箱をのぞき込む子供のように、思わずにんまりしてしまうのだった。




久しぶりに我が家に眠っていたおもちゃ箱を見つけて、クッキーをつくることにした。


焼きあがったものをオーブンから取り出したら、プレーン味しか作っていないはずのに、ココア味のものまであるではないか。一時的な記憶喪失かと、一瞬不安になった。




見た目はココア。中身はプレーン。その名は、焼きすぎたクッキー☆







もう随分長い付き合いになるが、私は未だにオーブンちゃんのことがわからない。


わからないけれど、存外香ばしくて美味しかったから、オーブンちゃんの優しさとして受け取っておこうと思う。