臆病者と年パス
年間パスポート。
その施設を愛してやまない者だけが手にするという、常連の証―…。
「年パス持っているので」
人生で言ってみたい言葉の一つである。
臆病者で、出かけることへのハードルが高いうえに、無駄に旺盛な好奇心のせいで、同じところに行くなら、行ったことがないところへ行きたいと考える質。
行ったことがないところへ行くのは苦手だから、さらに出かけることへのハードルが上がる、という悪循環。
「行ってみたいところはたくさんあるし、同じところへ行くのはもったいない」
その考えが、己の完璧主義思考に拍車をかけて、時にお出かけが楽しめなくなっていたことに気がつくのには随分と長い時間がかかった。
「もう二度と来られないから、存分に楽しんで満喫しなければ」という強迫観念に駆られたお出かけが楽しいわけがないし、気軽に出かけられるわけがないのである。
それはお出かけに限らず経験に関しても同じで、突き詰めるというよりも、「より多くの経験」を追い求めてきた。いろんな花から少しずつ蜜を吸う蝶々のように、私の意識はふわふわと彷徨う。
「新しい経験をして立派な人間に成長しなければ」という思い込みのせいなのかもしれないし、元々の性格なのかもしれないし、その両方なのかもしれないが、私は一つのことに長く熱中したことがない。
年パスへの憧れはつまり、「一つのものに夢中になれる」ことへの憧れなのだった。
これまで「成長すること」「立派な人間になること」を人生のテーマとしてきた。
そうあるべきだと、皆がそう生きているのだと信じて疑わなかった。
何の気づきも得られないことは無駄だと思ってきたけれど、「楽しいから」という理由で時間を使うことは「ダメな人間になること」ではないらしい。
それならばと、私はついに、いつか欲しいと思っていた動物園の年パスを手に入れたのである。
…白状すると、なかなか買いにいかない私に痺れを切らした夫が買ってきてくれたのだけれど。
これがあれば他に何もいらない。
これがあれば生きていける。
そんな感情を私は知らない。
年パスは手に入れたけれど、きっと、これから先もそういう感情になることはないのだろうなあとも思う。
そんな自分をどこか欠けた人間だと思っていた時期もあった。
一つのことに熱中できないこと、夢中になれないことを恥ずべきことだと思っていたけれど、その捉え方が、たくさんある捉え方のうちの一つに過ぎないと知った。
私はこれからも「一つのことに夢中になれる人」に憧れながら、ふわふわ移ろいながら生きていく。
それも悪くないような気がしている。
夫が年パスをプレゼントするときに言ってくれた言葉。
「可愛い写真を貼って使ってくださいね」
私が選んだ写真は、なぜか免許証のコピーだった。
珍妙な表情の私が鎮座している年パスを見せるたびに、後悔は募る。