雨が好きな女をきらいな女


久しぶりにソーセージパンを焼いた。



焼き上がりを待ちつつ本を読んでいると、突然室内が薄暗くなり、バケツをひっくり返したような雨がけたたましく降り始めた。



遠くで地ひびきのような雷の音も聞こえる気がする。



吸い寄せられるように窓の側へいき、窓に打ち付けられる水滴や、揺れる庭の草木をぼうっと眺める。



昔、台風がくる度に海へ散歩に行こうと誘ってくる友人がいたっけ。
当時は気でもふれたのかしらと若干ひいていたけれど、今はなんとなく気持ちがわかるような気がした。


大地に、地球に、激しくぶちまけられる雨も、激しい雨音も、低い唸り声のような雷も、なぜか私の心を捉えて揺さぶった。


友人が台風のときに感じていたのも、こんな感情だったのだろうか。


惹かれるのは、きっと激しさだ。
自然の爆発的な激しさ。


自分の中にある激しさが、外に出ることなく自分の内側で燻っている腐りかけの激しさが、自然の激しさに共鳴しているのかもしれない。



そんなことを思って、目が離せなくなる。




パンが焼けたことを知らせるメロディが鳴り響く。
ようやく遅めのランチだ。



そういえば、最近よんだ奥田亜希子さん著書の「ファミリー・レス」という小説に、雨が好きだという女が嫌いだという女性が出てきた。



私はそれを読んで、ああ、雨が好きだという人を嫌う人っているよなあと思った。


そして、私はこれから雨もいいなあと思う度に、それを口に出すことを一瞬ためらう人生を歩むのだろうなあとも思った。



私はそういう人なのだ。



こういう人が嫌いという意見を知ってしまったら、それを意識せずにはいられない。
その事柄について、自分自身はどうでもいいと思っていたとしても。



めんどくさい女である。


めんどくさい女を卒業したくて、本を読んで自己対話を始めたはずではなかったか?


いや、きっと自己対話をしてきたおかげで、めんどくさい女を卒業したいと思っていたのに、未だめんどくさい女のまんまである自分を、受け入れることができているのだ。うむ。



1人完結しながら、焼き立てのソーセージパンをほうばる。


それにしても、このソーセージパンの整形、上手になってきた気がする。
エイリアンの指っぽいものから、ソーセージパンになってきた。



ちょっと気分がよくなる。


それにしても、なんかやけに室内の扉がガタガタしてるような??



・・・ちょっと待って。
隣の部屋の窓…、朝開けてから閉めてなくない!!!?



慌てて走るも、時すでに遅し。


室内には立派すぎる水たまりができていた・・・。



雨はすぐにやみ、川の氾濫や浸水に至らなかったのだから良かったじゃないか。
ああ、そうさ。その通りさ。




能面のような顔で水浸しの床を拭きながら、今後激しい雨が降ってきたときは、感傷に浸る前に必ず窓の確認をすることを胸に誓う。