あんまん あげぱん あげまん
常日頃からシリアスな内容の本や映画を意図的に避けている。
その世界観に入り込みすぎて、現実世界に影響がでるほど心が疲弊してしまい精神衛生上よくないからだ。
そのため普段からライトな内容のものを好む。
同じ理由で、戦争に関連する内容も敬遠しがちなのだが、「戦場のコックたち」という本をふと手にとった。
タイトルにコックとあったのと、なぜか謎解きミステリーだと思い、さほど重い内容ではないだろうと思ったのだ。
しかし 予想は外れた。
謎解き要素は含まれていたものの、戦場や人々の様子がリアルに感じられ、あまりの生々しさにこれは小説ではなかったかと何度も確認したほどだった。
心は消耗したのだけれど、読み終わったとき消耗だけではない感情が生まれた。
知りたい。そう思ったのだった。
「戦場のコックたち」のラストにはベルリンの壁についての描写があり、以前からいつかはドイツの歴史についてきちんと学びなおしたいと思っていた私はこれを機に関連の書籍を読んでみることに決意する。
「一冊でわかるドイツ史」や「ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世」、「価値を否定された人々」などをとりあえず読んでみることにした。
数を読んでぼんやりとでも何かを掴もう作戦である。
私の脳は、カタカナを拒絶する。
ドイツの成り立ちのあまりの複雑さに、当時の人々に「物事をややこしくするんじゃない!」と文句を言いたい衝動に駆られる。
なぜ、親類なのに同じ名前をつけるのですか。
損得勘定、裏切り、手のひら返し・・・誰が何をどのような思惑でしたのかはもう最後までわかりませんでした。私、駆け引きは苦手なんです。
どうか、後世のためにも、シンプルイズベストな政治をお願いできませんか・・・。
さて、その中でもナチス政権についての書籍が「価値を否定された人々」であった。
これまた私の理解力では深い学びを得られたとは言い難いのだけれど、ナチスの強制断種や大量殺害が起こった背景には、ヨーロッパで「優生学」という考え方が提唱されていたこと、その考え方をいろいろな立場の人々が自分たちに都合よく解釈しながら支持し、形を変えながら広まったっていったこと、戦時下という非常事態だったことなどが密接に絡んでいるらしい…(なんて浅い理解)。
そして殺害するか否かの判断基準の一つには、役に立つかどうかという視点が含まれていたらしい。
戦時下の人手不足、食糧不足もあり、仕事ができないもの、できたとしても簡単な仕事しかできないものは安楽死の対象となったのだとか。
ひどいなあ、ひどいなあと、どこか他人事のように読み進めていくうちに、徐々に既視感というのだろうか。
身に覚えがあるというか、『ひどいなあ』で片づけられないなんとも複雑な気持ちが広がってくる。
…ああ、そうだ。
私はこの考え方を知っている。
こういう考え方が、自分の中にあるのだ。
自分に対していつもこういう視点を持って生きてきたのだ。
出来ないことがある私は、完璧じゃない私は、『価値がない』と考えてしまう根底には、当時のドイツにあった考え方と通づるものがあるのではないだろうか。
そう思ったとき、自分自身に向けている刃の鋭さをはっきりと自覚し、ゾッとした。
さて、最近YouTubeのおすすめ動画に「本田晃一の知ってるだけでハッピーライフ」という番組が表示されていて、興味本位で観てみることにした。
タイトルは「男が勝手に伸びるあげまんになるには?」というもので、サムネの落書きみたいなお化粧がおもしろかったのと、日頃から“妻としてだめだ”という夫に対しての負い目があったのとで、目に留まったのである。
その動画では、夫がしてくれたことに対して素直に喜びを表現すること、喜びをしっかり表現しないと男性は拗ねてしまうことといった内容がわかりやすく説明されていたのだけれど。
ん?ちょっと待てよ。
そういえば・・・ちょうどこの動画をみる30分くらい前に、夫が以前プレゼントしてくれた指輪を私が喜ばなかったことに対しての批難をしていなかったか。
3年前にもらったもので、かれこれ10回目くらいの批難である。
この動画を踏まえて捉えなおすと、夫は拗ねていることになる。
つまり、夫が言いたかったことは『なぜ僕の愛情を喜ばないのか?』ということなのか。
わ、わ、私、なんて言ったっけ。
サイズも違うし、デザインも派手すぎてつけられない!と吐き捨てるように言ってしまった。
あろうことか夫を言い負かし、ドヤ顔までした。
どうだ、私が正しかっただろう!
思わずフリーズ。
でも私、お礼は言ってるし…。(㊟“まあ、気持ちは嬉しいけどね”ととってつけたようなお礼)
でもでも、いつも一方的というか、こっちの好みを無視した贈り物をもらっても、なのか?
本心から嬉しくなくても喜ばなきゃいけないか?
演技しなければならないのか?
『そんなふうに夫の価値観ばっかり押しつけられてもなあ…。私ばっかり合わせなきゃいけないのは、なんだかなあ…。』と悶々としていて、ハッとした。
そうか、私も価値観を押しつけていたのか。
“プレゼントはこうあるべき”という私の価値観が、夫のそれと違うのだ。
私は自分の価値観から外れたものを『それもいいね』と受け入れることができなかったのだ。
思い返せば、母に対してもそうだった。
私が求める愛情表現をしてくれない母に対して苛立っていたし、母の愛情表現を拒絶してきた。
“そんなのは愛情じゃない!押しつけだ!”
そうやっていろんなものをはねのけてきてしまったのである。
相手の価値観を受け入れられない理由は二つある。
ひとつは完璧主義思考。
私の中に積み重なった“こうじゃなければいけない”という正解が、それ以外を不正解にする。
そしてもうひとつは、自分には価値がないという自己価値否定。
相手を認めることは、私にとって自分の存在を脅かす危険なものに感じられたのだろう。
喜ぶことは、相手を認めることは、私の中の一部を否定すること。
私の中の正解が、間違っていると思わされることが怖かったのかもしれない。
だって正解はひとつしかないと信じてきたのだから。
正解、不正解と採点しなくてもよかったのかもしれない。
もっと自由に『そういうのもいいかもね』と笑ったって、何も失わなかったのかもしれない。
今までいったいどれだけの愛情をとりこぼしてきたのだろうか。
心の成長が、視野の広さ・選択肢の数を広げていくことならば、私はようやく成長期といったところか。
30歳。心の成長期、真っ盛り。
遅すぎるということはない。
と、信じている・・・。