顔をみないという意思表示
子どものころ𠮟られる度に、母から『お母さんの顔をちゃんとみなさい!』と言われることが嫌で嫌でたまらなかった。
幼いなりに、“顔を見るということは相手の意見を受け入れる”という意思表示になるのだと思い込んでいたからである。
母は、言うことをきかないと𠮟るというより怒る人だった。
『なぜ私を困らせるの!』『なぜ私を悲しませるの!』
そうヒステリックにののしられているように感じていた。
自分の中に理由があるときも、ないときもあったけれど、“困らせないで”“悲しませないで”といった感情をぶつけられてしまえば、私の『理由』などなんの力もないように思えた。
だから、わざと顔を見なかったのだ。
自分の心の中をまだ上手に言葉にできなくて、つながることのないピースたちが心の中に転がっている。
そこへ母の感情という豪雨が降りそそぐと、ピースは濡れてぐちゃぐちゃになってしまうのだった。
何か変だ。何かおかしい。
伝えたい言葉があるはずなのに、あったはずなのに。
もどかしいという感情さえ知らなかったあのころ、“言葉にできない”という未知のもどかしさに怖くなった。
自分の中に降りそそぐ豪雨が、小さな心に収まりきらずに溢れだしてしまう豪雨が、いったい何なのか、わからなかった。
ぐちゃぐちゃになったピースの山の前で、怖くて苦しくてうずくまる。
そうじゃない。そうじゃない!!!
心の中で必死に叫ぶその声は、母に届くことはなかった。
だから、顔を見ないということは、私なりの精一杯の意思表示であった。
『その言葉を受け入れることができません』という。
そんなことを怒られるたびに考えているものだから私はいつも謝るタイミングを逃してしまい、さらに母を激怒させ、長い長い時間拘束されたものだった。
先日、店で母親が幼い息子に『約束を守る』という約束をさせている場面に出くわした。
母親がお会計をしている最中、その少年は店内を探索していた。
(店内にいれば居場所がわかるような小さな路面店で、客も少なかった)
お会計を終えた母親が、その少年の姿を見て言った。
『そのお菓子ほしいの?買ってあげようか?』
少年は頷き、晴れて買ってもらえることになったのである。
そんな場面を周囲にいた大人たちはニコニコと見守っていた。
私も、ラッキーだったねえと微笑ましく見守っていると、お会計の直前、レジ係の人に待ってもらうよう伝え、その母親が少年と目線を合わせて肩を持ち『お菓子買ってあげるんだから、約束ちゃんと守れるよね?』と語りかけた。
少年は、予期せぬ展開に面白いほど目が泳ぎ、案の定『ちゃんとお母さんの顔を見なさい』と注意されたのだった。
ただ買い与えるだけではなく、そこから何かしらの学びを得てほしいという親心を目の当たりにして妙に心が震えた。
私は人前で子どもをしつけられるのだろうか。
人前で子どもを𠮟れるのだろうか。
同じようにこの場面に出くわした大人たちは何を思っているのか、すごく聞いてみたかった。
と同時に、こんな風にも思った。
あの少年、本当はあのお菓子、すっごくほしいわけじゃなかったのだろうなあ、と。
お母さんが近づいてきたときに、ちょうど、たまたま前にあったのだろうなあ。
いろんなお菓子を、同じくらいのペースで見ていたから。
ほしいかって聞かれたから、買ってもらえるなら…くらいの軽い気持ちで頷いたんだろうなあ。
すごく嬉しそうというよりは、“何か裏があるのでは”と探るような、戸惑ったような表情をしていたから。
あのとき、お母さんから目をそらした少年は、
『お母さんが買ってあげようかって言ったんじゃないか』
『ほしいかって聞かれたから頷いただけだよ』
『こんな約束させられるって知ってたら、いらないって言ったよ』
『こんなの卑怯だ、おかしいよ!』
という気持ちを言葉にする力がまだなかったのかもしれない。
本当のところは少年にしかわからないけれど、その小さな背中に“頑張れ”とエールを送る私は、そうじゃない!と叫んでいた小さなころの私なのでした。