自意識過剰が散歩しながら理想と現実について考える
私は、ただ自分の人生を楽しみたいのだ。
楽しめる自分になりたいのだ。
ふと、そう思ったのだった。
少し歩きたい気分になり、ちょうど期限の迫った払込票を見つけて、コンビニまで歩いて行くことにした。
むわっとした湿気た空気。
セミの鳴き声と鳥のさえずり。
草と、土の香り。
夏をダイレクトに全身で感じたのは、随分久しぶりな気がする。
私は体力がない。すぐ疲れる。
だから、この乏しい体力でたくさんのことをこなすためには配分を考えなければなず、必然的に移動手段は、比較的体力が温存できる車になる。
ちょっと歩きたい気分だなあと思っても、『でもここで歩いたら、疲れてその後何もできなくなるかもしれないよなあ』とか、『車で行ったら30分くらいで帰ってこれるんだよなあ』などと考えて、結局歩かない。
“ふら~と出かけて、たまたま見つけた素敵なカフェでお茶をする”といったことを、日常のひとコマに取り入れたい。
そういう生き方ができる人に、私はなりたい。
ただ現実の私は体力もなければ、いざ歩けば競歩並みの早歩き、のんびりとした時間を楽しむことさえ、下手くそなのだった。
そんな私が、歩きたいと思って歩いたのには理由がある。
お腹のあたりがずーんと重くて、何にも集中できなかったからだ。
何も手につかなさ過ぎて、いろんなことがどうでもよくなった。
そして思ったのだ。
こうなりゃ時間を無駄にしてやる!と。
これでもかというほど、ゆっくり歩いた。
自分でさえ、私はいったい何に追われているのだろうかと考えるほどに、私は常に急いている。急いているから、早歩きになる。時々、足が身体についていかなくて、前傾姿勢で歩いている。
昔、同じような歩き方をしている人を見かけたことがある。
すごく格好悪かった。
その人を見かけてから、歩くときは2分に一度、上半身と下半身のバランスを気にするようになった。
その人には感謝している。
ちんたらちんたら歩いていると、手持ち無沙汰というか、何をしたらいいのかわからなくなってくる。
いや、まあ、歩いているんですけどね。
散歩が好きな人はいったい何を楽しむのだろうか。
やっぱり景色だろうなと、空を見上げてみる。
うん、綺麗。
晴れているけれど雲が多いおかげなのか、太陽が陰っている時間が長く、歩きやすい。
曇り空とは違って“晴れ”の軽やかさもちゃんとあって、ついてるなと嬉しくなった。
空ばっかり見てると怪しい女だと思われるかもしれないから、キョロキョロする。
『“散歩を楽しんでいる”という自分』をゴリゴリに意識しながらも、全然意識していないですけど?自然に散歩を楽しんでますけど?感を出す、自意識過剰の散歩道。
意識したことなかったけど、草木の香りもひとつじゃないんだなあ。
そんな気づきもちょっと新鮮である。
どの香りをかいでも、小学校の帰り道の記憶のピースに結びつくのが面白かった。
キョロキョロ、クンクン。
充分怪しい奴なのだった。
小さいながらも本格的な畑の一角に、何十本ものひまわりが肩を並べて咲いている。
ひまわり。
太陽に向かって咲く花。
密集しているひまわりか、切り花のひまわりしか目にしたことがなかったのだが、最近、1本ずつ等間隔に配置された4、5本のひまわりを見かけたのだ。
細長い茎がひょろりと空へと伸び、てっぺんには大きな花が乗っかっている。
支えはないはずなのに、どのひまわりも凛と背筋を伸ばして咲いていた。
私は、思わずぎょっとした。
その姿は、ただただ奇妙なのだった。
ひょろりと佇むその姿はどこか頼りないのに、圧倒的な存在感。
背丈はもしかしたら、私よりも高いのではあるまいか?
そのうちひょこっと土から足を出し、歩きだしたりしないでしょうね。
奇妙だな、と思いつつ、しばらくそのひまわりたちから目が離せなかった。
そうか。
おまえたちは、1人で立っていたのだな。
密集していようとなかろうと、己の力で、凛と咲いていたのだな。
このひまわりは生きている。
そう強く感じたのだった。
こんなにも魅了されたのは、きっと、そんなひまわりが眩しかったから。
今の自分が『自立』できずにグラグラしているから。
5、6年前は、一人でも外食したり、気になったカフェに行ったり、買い物へ出かけたりしていた。
それは自然に、ではなく、一人でも好きなところへ行ける自分になりたい、と思ったからである。
リハビリに近いものであった。
緊張しながらも、“行けた” “食べたかったものを食べられた”といった成功体験を繰り返し、フットワークもそこそこ軽くなっていたし、『新しい場所へいく』『行きたいところへいく』ことへの免疫がついてきていた。
そんな時、コロナウイルスの影響で外出自粛。
自宅で過ごすことは大好きのため不自由はなかったけれど、『新しい場所へいく』『行きたいところへいく』ことへの免疫がすっかり無くなってしまったのだ。
気がつけば、どこへ行くときも夫を盾にしている私。
行きたい場所へ行けない不満が、夫が一緒に出掛けてくれない!という不満にすり替わる。
夫と一緒に出掛けたいという思いはあるけれど、全体の2割くらい。
あとの8割は、自分「が」、行きたい場所へ行けないという不満なのだった。
その相手が夫である必要は1ミリもない。
夫への不満ではなく、自分自身への不満なのである。
またリハビリをはじめてみよう。
私が行きたいところへ、私が連れて行ってあげられるように。
1人で行けるところを増やしたいわけではないのだ。
私は、ただ自分の人生を楽しみたいのだ。
楽しめる自分になりたい。
そして、楽しめる自分になるために、今はリハビリが必要なだけなのだ。ただ、それだけのことなのだ。
到着したコンビニの店員は、戸惑うほど動作がゆっくりな女性だった。
決して客を誘導しない、恐ろしく受け身な店員だった。
それでも、受け渡しの際はきちんと目を見てくれるのだった。
私が料金を払い終えた後、お会計の列は4人ほど並んでいた。
その店員はまったく動じず、己のペースを貫いていた。
それでも、客の目を見られる人なのだ、きっと悪い人ではないのだろう。
世の中には、いろんな人がいるのである。
とりあえず、ひまわりの根っこがどうなっているのか調べてみようと思う。