隠蔽工作
私は見栄っ張りだ。
人から賢そうだと思われたいし、大人なレディだと思われたい。
「ちゃんと」の明確な基準なんてわからないけれど、ちゃんとした人だと思われたい。
苦手なことばかりの自分をダメな奴だと責めては苦しくなるし、出来ないこと・知らないことがある自分を恥ずかしいと落ち込む。
失敗だって出来れば他人に知られたくない。
というか、失敗したくない。
だから私は、ちゃんとした人になるためにこれまで様々な努力を重ねてきた。
お料理やダイエット、マナーや気づかい・言葉づかい。
しかし、呆れるほどの面倒くさがりであるが故、この努力も中途半端なところで伸び悩む。
結果私は、中身が伴わない意識高い系へと進化した。
だからなのか、自分という人間を隠す傾向が私にはある。
伴わない中身を知られてがっかりされることを恐れているからだ。
がっかりされるのは、怖い。
怖いから、頑張る。
頑張るのは、疲れる。
期待されないほど、いっそダメな自分でいようと頑張ることを頑張らないことを頑張る。
そうすると、謎に高まった自身の“意識高い”部分が悲鳴をあげる。
私の美学に反する行為だと。
そんな矛盾を抱えて、日々を生きているわけである。
《出来ないこと・苦手なこと・失敗=ダメなこと》
この前提が自分を苦しめていることはわかっているのだけれども。
以前作ったおやつ用のスコーンがものすごく美味しく感じられて、しばらく、無くなるたびに何度も作った。
その勢いで“炊飯器で作る台湾カステラ”というものも作った。
そのうちに私のお菓子作りスイッチが入り、「作りたい」と思いながら半年以上経ったシフォンケーキ作りに取り組むことにした(もしかしたら、1年と、半年かもしれない)。
私はお菓子作りが好きだが、お世辞にも上手とは言えない。
高確率で何かしらの失敗をするからだ。
先に述べたスコーンも例外ではなく、とてつもなくザックザクな代物ができあがった。
ビスコッティのような、ラスクとスコーンの間のような。
…あれ、ビスコッティだっけ。
私が思い浮かべているものであってるだろうか。
名前は知っているけれど、はっきり何とはわからないものでこの世界は溢れている、と思う。
2回目以降は安心して「ああ、これはスコーンだ」と言えるものを作ることに成功したが、台湾カステラもなんだかぬめりのある独特の食感に仕上がった。
ふんわり仕上がるはずの形は、外枠を残して真ん中がへこみ、チーズケーキそっくりの見た目になった。
大豆粉を使ったからなのか。
加熱時間が足りなかったのか。
そもそも大豆粉を初めて使用し、台湾カステラを食べたことがない私には、正解はわからなかった。
シフォンケーキとの失敗ヒストリーはもっと長い。
底上げ・底上げ・くびれ・底上げ。
シフォンケーキの底の部分が空洞になることを底上げというらしい。
文字通り、底が上がってなくなるのだ。
シフォンケーキは焼きあがるとひっくり返す。
つまりは、底はシフォンケーキにとって上部にあたる。
この底上げという失敗を繰り返し続け、いつしか私にとってのシフォンケーキは上部がババロアの型のようにくぼんだものが当たり前になった。
にもかかわらず、今回はなんと成功してしまった。
な、なぜだ。なぜなんだ。
夫は私がシフォンケーキを焼いているときに自宅にいると、型からはずすとき必ず寄ってくる。
私が連敗を続けていることを知っているから、冷やかしに来るのである。
夫も失敗すると思っていたのだろう。
相当驚いていた。
失礼な奴だと一瞬苛立つものの、じわじわと成功した嬉しさがこみ上げてくる。
こんな無礼な態度だって、余裕の笑みでさらっと流せてしまう。
この喜びを目の前の無礼者のために台無しにする必要はないのだ。
成功するとまた作りたくなるのが人間の性。
2日後、私は再びシフォンケーキに取り組んでいた。
焼き上がり、はやる気持ちを抑えながらひっくり返して冷めるのを待つ。
1時間半ほど待って、きちんと冷めたことを確認する。
心を落ち着けるように深呼吸をして慎重に手を動かしたら、いよいよシフォンケーキから筒状の型を抜き取る―。
は、半分。
表れたのは、半分底上げ、半分は綺麗に焼けたシフォンケーキだった。
喜びと落胆が同時にやってきて、1人唇を嚙み締める。
脳裏に夫のからかうような笑みが浮かぶ。
私は思った。
隠蔽しようと。この失敗をなかったことにしようと。
幸い、今夫はいない。
底上げした半分を自分で食べてしまえばいい。
そうして、成功した部分だけを静かに夫に出せばいいのよ。
そそくさと底上げした部分を切り分け、コーヒーを入れて、席につく。
一口食べてすぐに気がついた。
…ああ、バニラエッセンスも入れ忘れてる。