臆病者の旅準備




実は今、数年ぶりに旅行へ行く計画を立てている。









私はインドア派だ。







といっても、「自宅で過ごす時間が大好きなんです」と目をキラキラさせながら言えるわけでも、日々の生活を慈しみながら丁寧な毎日を送っているわけでもない。






いたって平凡な毎日を送っていても、その平凡さえも私にとって大きな刺激となる。






臆病がゆえのインドアなのだ。












スーパーだろうが、コンビニだろうが、ケーキ屋さんだろうが、行きたかったお洒落なカフェだろうが、美容院だろうが、ショッピングだろうが、楽しみにしていた旅行だろうが、どこへ行くにしても、《社交的モード》への切り替え作業が必要になる。








そしてどうやら、私の《社交的モード》への切り替えスイッチは接触不良なのか、反応がすこぶる悪い。






うまく《社交的モード》への切り替えが行われないと、外出を先延ばしにするか、それが難しいときは緊張状態で出掛けることになる。






ちょっとそこまでの外出でさえ、切り替えに失敗した私は戦国武将さながらの面持ちだ。






「いざ…、参らん!!!」






毎度そんなことをしていたら疲弊するのも当然で、外出を伴う事柄へのフットワークは異常に重くなるのであった。






出先では、緊張で汗が噴き出し、全身しっとり・お顔をテカテカに光らせながらも(それさえも恥ずかしく、さらに汗ばむという負の連鎖)、すました顔で、“私全然緊張なんてしていませんけど何か?”というオーラを醸し出す(無駄な見栄)。






残念ながらそんな状態では、楽しむ余裕など持ち合わせていない。








以前何かで「その場所を楽しめないのは、自分がその場所に相応しくないと誰よりも自分が思っているからだ」といったような言葉を目にしたことがある。




確かに当たっている。



私はその場所で自分が存在することに対し、つい恐縮してしまう。








お料理上手じゃないし、


お洒落じゃないし、


方向音痴だし、


外国語も話せないし、


人見知りだし、


…、










とにかく自分が選んだもの、自分が話したことによって人からどう思われるのか、過剰に気にしてしまう。







幼少期から『正しい人になろう』と必死に周りを見て生きてきたのだ。






なるほど、人前でこういう発言をしたら悪いイメージを持たれるのか。



なるほど、キャラに合わないものを選ぶと笑われるのか。



なるほど、人は他人のこういうところを観察してジャッジするのだな。








今まで集めた膨大な情報はすべて「してはいけないルール」として蓄積された。








スーパーの買い物カゴの中身を見て、その人の持ち物を見て、電車の中での人間観察を通して、自分という人間をジャッジされることが、私は怖くてたまらない。




たった一部分だけを見て、勝手に判断されて、見知らぬ誰かにとって非常識にも、時に可哀想な人にだってなってしまう。






それが、怖い。




私の言葉は届かないから。






誰にも、何も言われない、世の中の正しさを知りたい。












そんなことを考えながら、でも、と思う。




きっと私だって同じだ。





私も無意識に想像したり、時には勝手に哀れんだりしているのだろう。



わざわざ言葉にしないだけで。





そこに悪意なんてものはなくて、ただ目に入って、その情報を自分の価値観というモノサシを使って自然に処理している人が大半なのかもしれない。




そしてすぐに忘れる。






もちろん中には悪意を持って、値踏みするような視線を投げつけてくるような人もいる。




いい気分はしないが、ものすごく不快だが、そういう人は恐らく不特定多数の観察者がいるはずだ。




私はその人にとって「私」という個人ではなくて、噂話の持ちネタの「ひとつ」にすぎないのだろう。






案外、人は他人に興味がない。




もちろん、人は私に興味がない。








きっと私は、たった一か所、水が干上がった小さな地面に出てしまった魚だ。




上下左右、いずれかに少しでも移動すれば、自由で広い海に出ていけるのに、ずっと同じ場所でバタバタともがき続けるのだ。






自由になりたい。




そう願いながら。










さてと、とりあえず旅行に持っていくおやつでも買いに行こうかしら。






そう思ってかれこれ1時間弱、ようやく玄関に辿り着いた。





ほら貝の音色が響きわたる。






「いざ…、参らん!!!」








自宅に帰宅し、安堵したことは言うまでもない。