夫が沸騰させたいのは、お湯か、わたしか、




些細なことだった。




お湯を沸かすときに、やかんにいれる水の量が多かった。


それだけのことだった。




そのことで、その日は夫から『なぜこんな簡単なこともできないのか理解ができない』と執拗になじられたのである。






私は心配性で、“足りなかったらどうしよう”と思っては、使用する量よりも多くやかんに水を入れてしまう。


水道代・ガス代・沸かす時間の観点から考えても、ぴったりの量で沸かしたほうがよいことは私だってわかっている。




わかっているけれど、別に・・・よくない?



わかった上でその不便さを引き受けているのだ。


なぜ、人格まで否定するような言い方をされなければならないのか。





そういう自分はどうなのだ。




財布や鍵を置き忘れては慌てて取りに戻るなど、物忘れが激しいのは誰だったか。



数分間大騒ぎしながら探し物をしたあげく、大抵すぐ目の前にあることばかりなのは誰だったか。






気持ちを落ち着けようと思うのに、なぜかその日は横柄な態度で、その後もあーだこーだ突っかかってくる夫にうんざりし、つい素っ気ない態度になる。




そんな私に向かって夫は言ったのである。


『今日は機嫌が悪い日だね。わかった。あんまり関わらないようにしマス。』と。




まるで“僕は被害者だけど、大人な対応してあげるから。さっさと頭冷やしてよね”とでも言いたげなその言い方に、一瞬で沸点に到達。


しかし、沸騰しすぎた私は怒りをこえて脱力した。




この人に私の言葉は届かない。


そう感じることは大海原に小舟でぽつんと取り残されたような孤独感と、深い深い悲しみをもたらした。






決めつけられた。


決めつけられたのだ、夫に。




ご機嫌だったわけではないけれど、ごくごく普通の気分だった。


もしかしたら気づいていなかっただけで、雲行きが怪しい気分だったのかもしれない。




それでも、その引き金を引いたのは夫の態度だったのに。




私の中にたくさんある感情のうち、夫にとって都合のよいたったひとつの不機嫌だけを取り上げて、私を悪者に仕立て上げたられたのだ。




私は言いたい。


そういうあなたは、寝不足ですよね?






はあ、なんだか近ごろうまくいかない。


いったいぜんたい、何をどうしろっていうのか。







ずっと、わかりやすい人になりたいと思って生きてきた。




一言で言い表すことができる人。


その見解が、自他共に一致する人に。






優しい人


おもしろい人


かしこい人


おしゃべりな人


おしゃれな人


無口な人


冷たい人


暗い人




なんだってよかった。




わかりやすい、シンプルさを手に入れることができれば、今抱えているような煩わしさから解放されるのだと、そう信じていた。


数年前、そんな人は実はいないのだと気がついたとき、ホッとする反面、がっかりしている自分もいた。




私は、私の複雑さに疲れ切っていたのだった。






自分と向き合うようになった今でも、自分自身にほとほと疲れてしまうときがある。




物事を多面的に捉えられるようになるために、日々考え、自分の考え方の癖を知っては、新たな視点に気づいていく。




私もいけなかったな。


私がこういう考え方だったから、気づけなかったのだな。


私も偏った考え方や受け取り方をしていたのだな。






確かに視野は広がっているはずなのに、どれだけ自分と向き合う時間をとっても、どれだけ気づきを得ても、時々、うまく息ができなくなるのだ。




泣きたいような、叫びたいような気分になり、何もかも放り出したい衝動を覚える。




なんでだろう。


こんなに頑張っているのに、どうして心の穴はうまらないのだろう。


小さくなるどころか、大きくなっている気がするのはなぜなのだろう。






夫の言葉に傷つき、一人になれる自室へ避難。


唇を嚙みしめ、壁を睨みつけながらそこまで考え方てハッとする。




私、頑張っていたんだ。


いつの間にか“私が間違っているのだから捉え方を変えなければならない”という前提を掲げたまま、考え方を変えなければ幸せになれないのだと思い込んでしまっていたのだ。






悲しかったのに。


悔しかったのに。


腹が立ったのに。


嫌な気持ちになったのに。






たとえ、考え方の癖が原因だったとしても、知らなかった捉え方があったとしても、そう感じた気持ちは、紛れもない事実なのに。






私が間違っているのだから、そんなふうに思ってはいけない。




私はいつからかそうやって考えては自分の気持ちに蓋をして、考え方という新しい道具を使いこなすことばかりに夢中になってしまっていた。


その道具を使う自分自身の傷の手当てをしないまま。




そんなの、疲れてしまって当然だ。






私の気持ちや感じ方は、直さなくてはいけないものでも、矯正しなければいけないものでもなかった。


ただ寄り添ってあげればよかったのだ。



ああ、また…また忘れてしまっていた。





いつもごめんよ、私・・・。




鼻の奥がつんとして、視界がぼやける。


寝違えた背中が地味に痛い。


顔の全筋力を使って中心によせ、私は梅干しになった。






もったいない、と思って、気づけばもう随分行っていなかったパン屋に行こうと思った。

あんまん あげぱん あげまん



常日頃からシリアスな内容の本や映画を意図的に避けている。


その世界観に入り込みすぎて、現実世界に影響がでるほど心が疲弊してしまい精神衛生上よくないからだ。



そのため普段からライトな内容のものを好む。



同じ理由で、戦争に関連する内容も敬遠しがちなのだが、「戦場のコックたち」という本をふと手にとった。
タイトルにコックとあったのと、なぜか謎解きミステリーだと思い、さほど重い内容ではないだろうと思ったのだ。


しかし 予想は外れた。


謎解き要素は含まれていたものの、戦場や人々の様子がリアルに感じられ、あまりの生々しさにこれは小説ではなかったかと何度も確認したほどだった。



心は消耗したのだけれど、読み終わったとき消耗だけではない感情が生まれた。




知りたい。そう思ったのだった。




「戦場のコックたち」のラストにはベルリンの壁についての描写があり、以前からいつかはドイツの歴史についてきちんと学びなおしたいと思っていた私はこれを機に関連の書籍を読んでみることに決意する。




「一冊でわかるドイツ史」や「ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世」、「価値を否定された人々」などをとりあえず読んでみることにした。


数を読んでぼんやりとでも何かを掴もう作戦である。


私の脳は、カタカナを拒絶する。




ドイツの成り立ちのあまりの複雑さに、当時の人々に「物事をややこしくするんじゃない!」と文句を言いたい衝動に駆られる。


なぜ、親類なのに同じ名前をつけるのですか。


損得勘定、裏切り、手のひら返し・・・誰が何をどのような思惑でしたのかはもう最後までわかりませんでした。私、駆け引きは苦手なんです。


どうか、後世のためにも、シンプルイズベストな政治をお願いできませんか・・・。





さて、その中でもナチス政権についての書籍が「価値を否定された人々」であった。


これまた私の理解力では深い学びを得られたとは言い難いのだけれど、ナチスの強制断種や大量殺害が起こった背景には、ヨーロッパで「優生学」という考え方が提唱されていたこと、その考え方をいろいろな立場の人々が自分たちに都合よく解釈しながら支持し、形を変えながら広まったっていったこと、戦時下という非常事態だったことなどが密接に絡んでいるらしい…(なんて浅い理解)。




そして殺害するか否かの判断基準の一つには、役に立つかどうかという視点が含まれていたらしい。


戦時下の人手不足、食糧不足もあり、仕事ができないもの、できたとしても簡単な仕事しかできないものは安楽死の対象となったのだとか。





ひどいなあ、ひどいなあと、どこか他人事のように読み進めていくうちに、徐々に既視感というのだろうか。


身に覚えがあるというか、『ひどいなあ』で片づけられないなんとも複雑な気持ちが広がってくる。





…ああ、そうだ。
私はこの考え方を知っている。



こういう考え方が、自分の中にあるのだ。


自分に対していつもこういう視点を持って生きてきたのだ。




出来ないことがある私は、完璧じゃない私は、『価値がない』と考えてしまう根底には、当時のドイツにあった考え方と通づるものがあるのではないだろうか。




そう思ったとき、自分自身に向けている刃の鋭さをはっきりと自覚し、ゾッとした。






さて、最近YouTubeのおすすめ動画に「本田晃一の知ってるだけでハッピーライフ」という番組が表示されていて、興味本位で観てみることにした。


タイトルは「男が勝手に伸びるあげまんになるには?」というもので、サムネの落書きみたいなお化粧がおもしろかったのと、日頃から“妻としてだめだ”という夫に対しての負い目があったのとで、目に留まったのである。




その動画では、夫がしてくれたことに対して素直に喜びを表現すること、喜びをしっかり表現しないと男性は拗ねてしまうことといった内容がわかりやすく説明されていたのだけれど。




ん?ちょっと待てよ。


そういえば・・・ちょうどこの動画をみる30分くらい前に、夫が以前プレゼントしてくれた指輪を私が喜ばなかったことに対しての批難をしていなかったか。



3年前にもらったもので、かれこれ10回目くらいの批難である。




この動画を踏まえて捉えなおすと、夫は拗ねていることになる。


つまり、夫が言いたかったことは『なぜ僕の愛情を喜ばないのか?』ということなのか。




わ、わ、私、なんて言ったっけ。


サイズも違うし、デザインも派手すぎてつけられない!と吐き捨てるように言ってしまった。


あろうことか夫を言い負かし、ドヤ顔までした。


どうだ、私が正しかっただろう!




思わずフリーズ。




でも私、お礼は言ってるし…。(㊟“まあ、気持ちは嬉しいけどね”ととってつけたようなお礼)



でもでも、いつも一方的というか、こっちの好みを無視した贈り物をもらっても、なのか?


本心から嬉しくなくても喜ばなきゃいけないか?


演技しなければならないのか?







『そんなふうに夫の価値観ばっかり押しつけられてもなあ…。私ばっかり合わせなきゃいけないのは、なんだかなあ…。』と悶々としていて、ハッとした。



そうか、私も価値観を押しつけていたのか。




“プレゼントはこうあるべき”という私の価値観が、夫のそれと違うのだ。


私は自分の価値観から外れたものを『それもいいね』と受け入れることができなかったのだ。





思い返せば、母に対してもそうだった。


私が求める愛情表現をしてくれない母に対して苛立っていたし、母の愛情表現を拒絶してきた。




“そんなのは愛情じゃない!押しつけだ!”




そうやっていろんなものをはねのけてきてしまったのである。




相手の価値観を受け入れられない理由は二つある。




ひとつは完璧主義思考。


私の中に積み重なった“こうじゃなければいけない”という正解が、それ以外を不正解にする。




そしてもうひとつは、自分には価値がないという自己価値否定。


相手を認めることは、私にとって自分の存在を脅かす危険なものに感じられたのだろう。




喜ぶことは、相手を認めることは、私の中の一部を否定すること。


私の中の正解が、間違っていると思わされることが怖かったのかもしれない。


だって正解はひとつしかないと信じてきたのだから。




正解、不正解と採点しなくてもよかったのかもしれない。


もっと自由に『そういうのもいいかもね』と笑ったって、何も失わなかったのかもしれない。


今までいったいどれだけの愛情をとりこぼしてきたのだろうか。






心の成長が、視野の広さ・選択肢の数を広げていくことならば、私はようやく成長期といったところか。




30歳。心の成長期、真っ盛り。




遅すぎるということはない。


と、信じている・・・。

プチシューみたいなたくさんの夢と出来事の着眼点


夢を叶えるという定義が、『“いつか”と思っていたことをする』ことだとするならば、ここ最近、たくさんの夢が叶っている。




いつか作ってみたいと思っていた数々のパン作りにはじまり、いつか買おうと思って先延ばしにしていたものを新調したり。




いつか欲しいと思っていた食パン用の型を夫がプレゼントしてくれたり、いつか欲しいと思っていた蒸し器をたまたまカタログギフトで手に入れたり。




最近一緒にお出かけできていなかった夫と久しぶりに出かけられたり。






書き出してみても本当に些細で、こんなこと夢って言えるの?と疑問に思ってしまいそうだけれど、どんなに些細なことでも『夢が叶った!』『ラッキー!』『ついてる!』と喜べる単純な自分でいるのも悪くない。




どんな出来事もどの部分をを切り取るかで印象は大きく変わると言われるし、仮に同じ出来事が起きたとしても、切り取る部分が違えば、見える景色は人それぞれ。




きっと私はこれまで、出来事のネガティブな面を切り取っては、綺麗にスクラップして保管するような人生を送ってきたのかも。


何度もそのスクラップを見返しては、“ほら、私はこんなにだめなんだ”“私は価値のない存在なんだ”と自戒し、すべてに遠慮し、萎縮してきた。



『だめで、すみません』


『私なんかが、すみません』




長い時間をかけてようやく自分が見ているものが、出来事の一部分だということを理解し、いろんな受け取り方があることを知ってきた。




だからこそ、誰に遠慮するでもなく、些細なことでも夢が叶ったと喜べる自分に出会えたのだと思うと感慨深い。



長い道のりだった、とこれまでの日々に思いをはせてみれば、案外いる場所は変わっていないのではという気がしてくる。景色のいい素晴らしい場所に向かって険しい道のりを歩いているつもりだったが、私はもともと景色が素晴らしい場所にいたのかもしれない。


薄暗い霧がたちこめて、何も見えていなかっただけで。




…なんだか山頂にでも辿り着いたような気になっているけれど、油断するとすぐに霧がたちこめて大切なものを見落とすのだろうな。


霧がたちこめて、また霧をはらして、そうやって繰り返していくことで視野を広げていくのだろう。






なんかドラマの最終回を迎えた主人公みたいな気分になってきた。


ここらでいい感じの音楽でも流していただいて・・・






なんて自分に酔っていたら、思い出した。




小学生の頃からずっと叶えたかった夢があることを。




小学生の頃、わかったさんシリーズのお菓子を作ることを夢見ては、こっそりとノートに書き写していた。なぜ“こっそり”なのかというと、お菓子作りをしたいと思っていることを両親に知られることが恥ずかしかったからだ。




『いつか大人になったら作ってみたい』




そう未来の自分に託したはずなのに、
とっくに大人になったというのに、



いつでも叶えられることに、今気がついた。



せっかくだし、作ってみようかなと考えたとき、心の中に作ることを足踏みする自分が生まれた。



足踏みしながら、もうひとりの私が言う。


『うまく出来るの?』
『難しいかもよ』
『失敗するかもよ?』




“いつか”と思いをはせて先延ばしにするほうが、実際に行動に移すことよりも心地よいときがある。



だって私は、夢を叶えることを怖いと思う臆病者だから。


(ずーっと行きたかった場所に行けることになったときだって、喜びより先に『嘘、どうしよう!?』と思う)




だけど、あの勇敢なラプンツェルだって夢を叶える直前にこう言っていた。




―私、怖いの。


 ずっと18年の間、窓の外を眺めて夢見てた。


 あの光が空に舞い上がる様子を間近で見たいって。



 想像してたのと違ってたらどうしたらいいの?


 夢が叶ってしまったら、次は何をしたらいい?―



これに対して、プリンスのユージーン・フィッツハーバートはこう答える。




―それが楽しいんじゃないか。


 また新しい夢を探すんだ。―




そう、そうよね、ユージーン…!
やりたいこと、どんどん叶えていけばいいのよね!


怖くても、怖くないんだわ・・・
私・・・やってみるわ!!!




気持ちはディズニープリンセス。
歌いだしそうな勢いのまま図書館でわかったさんの本を借りてきた。



一番憧れていたわかったさんのシュークリーム。





いよいよ夢を叶えるのね!!!




最高潮に盛り上がった気持ちは、冷蔵庫を開けてバターと生クリームがない現実に気がつくとともに急速にしぼみ、ディズニーの魔法はあっけなく解け去った。




…買い物は後日にしてとりあえず久しぶりに読んでみようかな。








決して叶えるのが怖いからではない。



ただー。
今日はめんどくさいだけ。


ただ、それだけ。