ナイナイ星人がみる世界

気づかぬ間にナイナイ星にワープしていた。


しかも、夫婦そろって。




すべてが足りない。何もかもが合わない。


不調和など何もないと思っていた日常が、音もなく崩れていくようだった。




私たちはナイナイ星人と化し、ひたすら“ないもの”を数えては嘆いた。


お互いを見る目は不信感でいっぱいになり、口を開けば相手を批判しあう日々。






時間がない。


お金がない。


未来がない。


あるのは不安だけ。




私たちはこういうところが合わない。


ここも、ここも、ここだって合わない。


え。まじで合うとこ全然ないんですけど。




なぜ、今一緒にいるのか?


なぜ、ここまでやってこれたのか?




結婚生活の根底を揺るがしかねない、根本的な疑問に今さらぶち当たる。








夫は音楽が大好きだ。


そして、その曲を大音量で聴くことを生きがいとしている。




かたや私は、滅多に音楽を聴かない。


大きな音が苦手で、時に体力さえ消耗するし、極度の心配性。


“こんな大音量で音楽を聴いていたらご近所トラブルになるのでは”と気が気でない。




音楽は楽しんでくれて構わない。


思う存分歌ってくれて構わない。




私には見える。


眉間にしわを寄せて手でリズムをとりながら熱唱するあなたの歌声を聞きながら涙する大勢のファンたちが。




私には聞こえる。


ファンたちの割れんばかりのスタンディングオベーションと、アンコールを求める楽しそうなかけ声が。




いやね、楽しそうにしている姿を見るのは、好きなのだけども。


私は熱烈なファンにはなれない性分なのである。








『君は僕の好きなものや話に興味をもたない』と夫は言う。






あのねえ、“おしつけ”はよくないってこと、今どき「たまご」だって知っているのよ。




「たまご」はね、マシュマロに言われたんだって。


「おしつけるなよ」って。




それで思ったんだって。


「それも そうだな」って。




「たまごのはなし」って本にそういう「たまご」が出てくるのよ。




ちょっと、おーい。私の話聞いてます?




…夫は言う。


『君は僕の好きなものや話に興味をもたない』と…。


(あんたもな!)








“私たちは合わない”という話が出た理由の一つには、こういった背景があるのだ。






ナイナイ星人となった夫。




『音楽好きな女性だったら、好きな音楽を一緒に楽しめたはずだ』


『もっと僕の話に興味を持って、楽しそうに聞いてくれる女性もいるはずだ』


『今連絡を取っている女友達とは、趣味の話で楽しく話している。だから比べてしまう。』


そんなことを言ってのけた。




ああ………。


もうどこに突っ込んだらいいのかさえ分からない。






これまで散々母に、兄弟と天秤にかけられて生きてきた。


天秤にかけられたあげく、私はいつだって軽く扱われてきた。




比べられることが、天秤にかけられることが、私は大嫌いなのだった。







呆然と夫を眺めつつ、私の心は安全装置を起動させ、心のシャッターを閉める準備に取りかかる。


今までもそうやって自分を守って生きてきた。






だけど、と思う。


私はもう、自分の気持ちを言葉にできるようになったのではなかったか?




母には届かなくて諦めてしまったけれど、今の私は、母の顔色を窺ってばかりの無力な子どもではなくなった。




それに本質は、比べられたところにはないのだ。


夫は今、拠り所を求めるほどに心が弱っているということなのだから。




私は夫に自分の気持ちを伝え、夫の話を聞いた。




山口路子さん著書のフランスの作家フランソワーズ・サガンの言葉をまとめた「サガンの言葉SAGAN」にこんな一節があった。




「脆くて弱い人間が、精一杯に生きている。そんな人間に、できないことを求めることの非情さを、サガンはよく知っていました。」




心が弱っているときは、正論をふりかざしたって何の意味ももたないことは、同じく脆くて弱い人間の私はよくわかっている。




それでも私は、そういう弱さを”それでもいいのだ”とはまだ思い切れていなくて、思えたり、思えなかったりとフラフラしていて、だから夫の話を聞きながらも、結婚して5年ほど経つ夫がこういう発言をしたことが、無性に寂しかった。



夫はきっと、今まで歩み寄ろうと努力してこなかったのだなと思ったから。




自分の中に浮かんだ未熟な考えを、受け取り手の気持ちを無視して一方的に投げつけるなんてことができる人なのだ。


”君を本当に大切に思ってるから正直に話したんだよ”なんてバカみたいな理由をどや顔で言ってしまう人なのだ。





自分ばかりが未熟のように思ってきたけれど、夫にもまだまだ、未熟な部分がある。


お互い様なのだな、とも思う。





私たちが付き合い始めたばかりのころは、お互い今よりもひどかったっけ。




今よりも心が不安定だった私は、自分の心の柔らかい部分を刺激されたとしても、自分の気持ちを言葉にして伝えられるようになってきている。


人の話を聞くことが大嫌いで、30秒以上話をされるとあくびが止まらなくなっていた夫は今、随分長い時間深い話をできるようになった。


(…大丈夫か、この夫婦。)




まあ、著しい成長である。






けれど今、比べられたことへの腹立たしさを未だ消化しきれない私は、口を開けば飛び出す夫への嫌みに自分でも辟易しているのだった。




発した側はスッキリして、受け取った側がモヤモヤする。


そんなこともあるのだから、まったくややこしい世界である。






ああ、嫌みがやめられない、とまらない・・・。


かっぱえびせんでも、久しぶりに食べればよいのでしょうか・・・。

雨が好きな女をきらいな女


久しぶりにソーセージパンを焼いた。



焼き上がりを待ちつつ本を読んでいると、突然室内が薄暗くなり、バケツをひっくり返したような雨がけたたましく降り始めた。



遠くで地ひびきのような雷の音も聞こえる気がする。



吸い寄せられるように窓の側へいき、窓に打ち付けられる水滴や、揺れる庭の草木をぼうっと眺める。



昔、台風がくる度に海へ散歩に行こうと誘ってくる友人がいたっけ。
当時は気でもふれたのかしらと若干ひいていたけれど、今はなんとなく気持ちがわかるような気がした。


大地に、地球に、激しくぶちまけられる雨も、激しい雨音も、低い唸り声のような雷も、なぜか私の心を捉えて揺さぶった。


友人が台風のときに感じていたのも、こんな感情だったのだろうか。


惹かれるのは、きっと激しさだ。
自然の爆発的な激しさ。


自分の中にある激しさが、外に出ることなく自分の内側で燻っている腐りかけの激しさが、自然の激しさに共鳴しているのかもしれない。



そんなことを思って、目が離せなくなる。




パンが焼けたことを知らせるメロディが鳴り響く。
ようやく遅めのランチだ。



そういえば、最近よんだ奥田亜希子さん著書の「ファミリー・レス」という小説に、雨が好きだという女が嫌いだという女性が出てきた。



私はそれを読んで、ああ、雨が好きだという人を嫌う人っているよなあと思った。


そして、私はこれから雨もいいなあと思う度に、それを口に出すことを一瞬ためらう人生を歩むのだろうなあとも思った。



私はそういう人なのだ。



こういう人が嫌いという意見を知ってしまったら、それを意識せずにはいられない。
その事柄について、自分自身はどうでもいいと思っていたとしても。



めんどくさい女である。


めんどくさい女を卒業したくて、本を読んで自己対話を始めたはずではなかったか?


いや、きっと自己対話をしてきたおかげで、めんどくさい女を卒業したいと思っていたのに、未だめんどくさい女のまんまである自分を、受け入れることができているのだ。うむ。



1人完結しながら、焼き立てのソーセージパンをほうばる。


それにしても、このソーセージパンの整形、上手になってきた気がする。
エイリアンの指っぽいものから、ソーセージパンになってきた。



ちょっと気分がよくなる。


それにしても、なんかやけに室内の扉がガタガタしてるような??



・・・ちょっと待って。
隣の部屋の窓…、朝開けてから閉めてなくない!!!?



慌てて走るも、時すでに遅し。


室内には立派すぎる水たまりができていた・・・。



雨はすぐにやみ、川の氾濫や浸水に至らなかったのだから良かったじゃないか。
ああ、そうさ。その通りさ。




能面のような顔で水浸しの床を拭きながら、今後激しい雨が降ってきたときは、感傷に浸る前に必ず窓の確認をすることを胸に誓う。

必要経費


夫の言動に傷つき、そこからいろんなことを考えて、もう随分長いことパン屋へ行っていないことに気がついた。




いつからかもったいないから、と足が遠のいていた。


(そのくせ、スーパーでお菓子は大量に買ってしまうという矛盾よ…。


最近読んだ金子由紀子さんの「お金に頼らずかしこく生きる 買わない習慣」という本でも本当に欲しいものを高いからと我慢しながら、安いものを買ってしまうことについて、小さな不満が溜まっていき、無意識下で“こんなモノしか買えない自分”という自己嫌悪を抱くようになるのだと説明されていた。


それでは心のすき間がうまらないらしい。私のことかな?)





私は腹が立っていた。


私の気持ちをないがしろにした夫に。


そして、私自身に。




ああ~もう!


自分の気持ち大切にしてやろうじゃないか、このやろう!!




とりあえず、パン屋行ってやらあ!!!(何語)






そしてパン屋に行こうと決めたとき、半年(…いや、1年?)ほど前からお店の前を通るたびに「いつか行きたい」と思っていたパン屋のことを思い出したのである。





いそいそとスマホで検索を開始する。


新しいお店に行くときは、下調べ必須。これ絶対。
なんたって臆病者ですから。




名前、名前……なんだっけ?


仕方ない、地図アプリで場所から名前を突き止めよう。




いつもあのごはん屋さんに行くときに見かけるから…と、その店の名前を入力し、写真プレビューで目当てのパン屋を発見する。


さて、一番知りたい情報は駐車場の有無・大きさ・駐車のしやすさである。




いつも前を通るたびに車を止めにくそうだと心配していたのだけれど、写真プレビューを様々な角度に動かしつつじっくり見ても私が苦手とするタイプの駐車場にしか見えない。


路面店で、お店の前に1台停められそうなくらいのスペース。


入るときか出るときに、道路にはみ出さなければならない駐車場は、人様の迷惑にならないように小さくなって生きてしまう私のような臆病者には心理的負担が大きい。


たとえ車通りが少ない道路だったとて。




それにこのパン屋、ガラス張りなんですもの・・・。






さっきまでの威勢が急速にしぼんでいくのを感じて、慌てて自分を励ます。




いいよいいよ、大丈夫。


近くに有料パーキングあるって。


今日は傷心だし、心理的負担を少なくすることを重視しよう。


そのためにかかるお金は必要経費だよ。






うじうじ悩みだす時間を自分に与えてはならぬと、眉毛もかかずにどすっぴんのままカバンをひっつかんで車に飛び乗った。




今日の目的は可愛くパン屋に行くことではないのだ。


パン屋に行く。それだけのことなのだ。





ふと我に返る。



ただパン屋に行くだけなのに、私はなぜこんなにも自分を奮い立たせなければならないのか…




なぜ行きたい場所へ行くことにも、やりたいことをやることにも、人よりも時間とお金がかかるのか…






あーあ。私、何やってんだろ。


なんだか泣きたくなってきて思わずため息が出る。






・・・。




でも、でもさあ!別によくない⁉


一体何が問題だっていうの⁉






私が安心して出来る方法が、傍から見て非効率で無駄だったとして、一体誰に迷惑をかけるというの⁉


これは仕事でも何でもないプライベートな時間だというのに⁉





なんだか無性に腹が立ってきて思ったのだ。




もういいじゃないか。


非効率で無駄な方法しか選べない自分のことだって、もう許してあげよう。


苦手なことが多い中、私はよく頑張ってきたじゃないか。






パン屋の近くの有料パーキングに車を停めて、歩いてお店へ向かう。


パン屋の前に来てもなお怖気づく自分がいる。


どうしよう。ついてしまった。






『い、1回素通りしようかな……。』






いやいや、そんなことをしたらタイミングを逃して3周はすることになるのは目に見えている。
このタイミングを逃してはならぬ。


斜め掛けのカバンの紐をきつく握りしめる。




無事、入店。






大好きなハード系のパンを中心に買い求め、店員さんの袋詰めの癖の強さにパンへの愛情を感じてほっこりし(パンをつぶさないように気をつけているがゆえのコミカルな動きだった)、軽やかな足取りでお店をあとにしたのであった。




久々にパン屋に行けた喜びと達成感、今から家に帰れる安堵感。


帰るときが一番元気だったりするのです。


いやはや、いやはや、汗びっしょり。




家に帰って、夫の大好物「明太フランスパン」をどや顔でテーブルに置く。


腹立たしい夫を無視したいけれど、パン屋に行った話をしたくてたまらない。


悔しいから、あと30分は無視しとこう。






有料パーキングでかかった料金は200円なのだった。