臆病者の変身願望




これまでの人生、ないものを数えては落ち込み、足りないものを数えては嘆いて生きてきた。



気がつけば私は、不幸の材料を集めるプロフェッショナルへと、立派に成長してしまっていた。




「効率」や「生産性」を重んじる現代社会では、専門的な知識を持つプロフェッショナルが求められるが、不幸生産のプロフェッショナルほど非効率なものはないのではないか。


しかしながら、誰に教わらずとも、努力の一つすることなく私はその手のプロになったのだ。






心について学んでいると、「あるものに目を向ける」という言葉はうんざりするほど目にするし、その重要性だって頭ではわかっている。もちろん、「あるものを書き出すワーク」だって取り組んだ。
が、何も変わらなかった。


あるものを書き出したところで、私は私でしかなかった。







私はいつだって、私以外になれる魔法を探し求めていた。



この手のワークは継続することに意味があるらしいのだけれど、こちとら即効性のある魔法を探し求めているわけで、こんな地味で即効性のない作業に時間を費やしている場合ではないのである。


つまり、「あるものに目を向ける」ことは、言葉ほど簡単ではなかった。いや、簡単すぎて物足りなかったのかもしれない。魔法がこんなに地味なはずがない、と。


セーラームーンだって、おジャ魔女どれみだって、プリキュアだって、変身するときは光ってまわって大変身☆である。
やっぱりこうじゃないと。






けれど、そろそろ認めざるを得ない。


セーラームーンもおジャ魔女どれみもプリキュアも、変身したって別人になっているわけではない。




大好きな映画「実写版シンデレラ」にこんな台詞がある。




妖精の魔法で、無事に舞踏会に行くことができたシンデレラ。


お城に入る前に、魔法で付き人へと変身したトカゲにこう言う。




「なんだか怖いわ、トカゲさん。


私はただの女の子。プリンセスじゃない。」




それを聞いたトカゲはこう答えるのだ。




「私もただのトカゲです。お付きの者じゃない。


このひとときを楽しみましょう。」






いろんな方の書籍やブログ、YouTubeなどで情報を集めてきたけれど、結局はどれも同じことを言っていた。


未来を変えたければ、今、この瞬間からご機嫌でいること。
幸せになること。


そして、幸せはなるものではなくて気づくもの。




ずっと変わりたいと願ってきた。


私が私でなくなることが、幸せになるための道だと信じて疑わなかった。


こんな失敗作の私では、もう0から作り直さなければどうしようもないのだと。あるものに目を向けたところで、もうどうにかできるレベルではないのだと。




やっと気がついた。


変わりたいわけではなかったのだ。




私は、幸せになりたかった。


幸せになりたくて、毎日を笑って生きたくて、自分と向き合いはじめたのだ。
幸せになるためには、「変わらなければいけない」と思い込んでいただけだった。




私は私のまま、幸せになってもいい。


そう思えたとき、見過ごしていた「ある」ものたちが、優しく笑いかけてくれた気がした。




気づいてくれるのを、ずっとここで待っていたよ、と。

臆病者、夢を叶える


私には夢があった。


それは「自宅で仕事がしたい」という夢である。



以前から“できたらいいのになあ”と思ってはいたけれど、“私には無理だよなあ”とどこかで諦めていた。にもかかわらず、特別な意気込みもないまま、なんとなくタイミングが合って、気がつけば自宅にいながら働くという環境を手に入れていた。




夢が叶ったわけである。




しかし私は幸せにはなれなかった。


朝がくることが怖くなって、毎日眠りにつく前に静かに泣いた。


「大丈夫」を呪文のように繰り返し、業務が終了するとホッとして、その一秒後には不安が押し寄せる。



大丈夫、大丈夫。


不安。




大丈夫、大丈夫。


それでも不安…。




脳内で繰り返されるこのやりとりに消耗し、すっかり元気がなくなってしまった。



あと何回「大丈夫」を繰り返せば、私は大丈夫になるのだろう。


考えすぎない、強い自分になれるのだろう。




何百回、何千回と「大丈夫」を繰り返しても強い自分に進化できないまま、仕事の時間はやってくる。

そこで私は、エナジーワードを片っ端からかき集めはじめた。仕事以外の時間は常にエナジーワードに触れ続ける日々。エナジーワードで心を武装しておかないと崩れてしまいそうだった。


通勤時間がなくなり時間の余裕ができたはずなのに、気がつけば在宅で仕事を始めてからの方が時間がないというミラクル。どれだけ武装しても不安が消えないため、時間がいくらあっても足りないのである。






そのかき集めたエナジーワードの一つに、ひすいこたろうさんのYouTube名言セラピーがあった。優しい口調の「本当はどうしたい?」という言葉を聞いたとき、「もう自分に大丈夫、大丈夫って言い聞かせながら、騙し騙し生きていくのはいやだ」と思ったのをきっかけに「すごい運の育て方」という本を衝動買いしていた。







自分の思い込みと向き合い、コツコツと設定し直す日々である。



今まで「強くなろう」と頑張ってきたわけだけれど、それはつまり「弱い自分のままではだめだ」と思っているということ。



弱い自分のままでは幸せになれないのだろうか。


弱い自分のままでは何もできないのだろうか。



ふと、そんな疑問が浮かんだ。


これまでの人生を振り返ってみると、案外そうでもないのかもしれない。



きっと、弱いままでも、臆病なままでも、毎日を楽しく生きていける。


いや、生きていっていいのである。



ということは、苦手なことを克服しなくても問題はないということではないだろうか。




せっかく叶えた夢だが、手放すことにした。


私は、在宅コールセンターの仕事を辞めた。



だって私は、電話が何よりも苦手なのだから。

顔をみないという意思表示



子どものころ𠮟られる度に、母から『お母さんの顔をちゃんとみなさい!』と言われることが嫌で嫌でたまらなかった。




幼いなりに、“顔を見るということは相手の意見を受け入れる”という意思表示になるのだと思い込んでいたからである。






母は、言うことをきかないと𠮟るというより怒る人だった。




『なぜ私を困らせるの!』『なぜ私を悲しませるの!』


そうヒステリックにののしられているように感じていた。




自分の中に理由があるときも、ないときもあったけれど、“困らせないで”“悲しませないで”といった感情をぶつけられてしまえば、私の『理由』などなんの力もないように思えた。




だから、わざと顔を見なかったのだ。




自分の心の中をまだ上手に言葉にできなくて、つながることのないピースたちが心の中に転がっている。


そこへ母の感情という豪雨が降りそそぐと、ピースは濡れてぐちゃぐちゃになってしまうのだった。




何か変だ。何かおかしい。


伝えたい言葉があるはずなのに、あったはずなのに。


もどかしいという感情さえ知らなかったあのころ、“言葉にできない”という未知のもどかしさに怖くなった。


自分の中に降りそそぐ豪雨が、小さな心に収まりきらずに溢れだしてしまう豪雨が、いったい何なのか、わからなかった。




ぐちゃぐちゃになったピースの山の前で、怖くて苦しくてうずくまる。


そうじゃない。そうじゃない!!!


心の中で必死に叫ぶその声は、母に届くことはなかった。




だから、顔を見ないということは、私なりの精一杯の意思表示であった。




『その言葉を受け入れることができません』という。




そんなことを怒られるたびに考えているものだから私はいつも謝るタイミングを逃してしまい、さらに母を激怒させ、長い長い時間拘束されたものだった。






先日、店で母親が幼い息子に『約束を守る』という約束をさせている場面に出くわした。




母親がお会計をしている最中、その少年は店内を探索していた。


(店内にいれば居場所がわかるような小さな路面店で、客も少なかった)



お会計を終えた母親が、その少年の姿を見て言った。




『そのお菓子ほしいの?買ってあげようか?』




少年は頷き、晴れて買ってもらえることになったのである。




そんな場面を周囲にいた大人たちはニコニコと見守っていた。


私も、ラッキーだったねえと微笑ましく見守っていると、お会計の直前、レジ係の人に待ってもらうよう伝え、その母親が少年と目線を合わせて肩を持ち『お菓子買ってあげるんだから、約束ちゃんと守れるよね?』と語りかけた。




少年は、予期せぬ展開に面白いほど目が泳ぎ、案の定『ちゃんとお母さんの顔を見なさい』と注意されたのだった。




ただ買い与えるだけではなく、そこから何かしらの学びを得てほしいという親心を目の当たりにして妙に心が震えた。




私は人前で子どもをしつけられるのだろうか。


人前で子どもを𠮟れるのだろうか。




同じようにこの場面に出くわした大人たちは何を思っているのか、すごく聞いてみたかった。







と同時に、こんな風にも思った。




あの少年、本当はあのお菓子、すっごくほしいわけじゃなかったのだろうなあ、と。




お母さんが近づいてきたときに、ちょうど、たまたま前にあったのだろうなあ。


いろんなお菓子を、同じくらいのペースで見ていたから。




ほしいかって聞かれたから、買ってもらえるなら…くらいの軽い気持ちで頷いたんだろうなあ。


すごく嬉しそうというよりは、“何か裏があるのでは”と探るような、戸惑ったような表情をしていたから。




あのとき、お母さんから目をそらした少年は、


『お母さんが買ってあげようかって言ったんじゃないか』
『ほしいかって聞かれたから頷いただけだよ』
『こんな約束させられるって知ってたら、いらないって言ったよ』
『こんなの卑怯だ、おかしいよ!』


という気持ちを言葉にする力がまだなかったのかもしれない。




本当のところは少年にしかわからないけれど、その小さな背中に“頑張れ”とエールを送る私は、そうじゃない!と叫んでいた小さなころの私なのでした。