旅に行く前の恒例儀式

旅にまつわるエッセイや小説、YouTubeの動画が好きだ。




食事中に録画したドラマを鑑賞することが生きがいだった私も、最近はもっぱらYouTube動画ばかりである。
楽しみにしている旅系YouTuberも何名かいて、動画が更新されるのを今か今かと待つ日々だ。




旅動画を観ていて思うのは、旅も十人十色だということ。


どこかで“旅は上手な人が行くもの”だと思い込んでいた私は、自由に楽しめばよいのだと、至極まっとうなことにようやく気がついたのだった。




旅にも正解があるように感じていた。


これは子どもの頃に行った家族旅行の記憶が関係しているように思う。



旅行に行こうと言いだすのは決まって母だった。



それは決まって唐突に告げられる。
私たちは訳もわからないまま準備させられ、車に乗せられた。


夕方に早めにお風呂に入ってから出発するときは”いつもと違う“ことに胸が高鳴った。


早朝、無理やり起こされて出発するときは、出かけなくていいからこのまま寝ていたいと、日曜日のお父さんのようなことを思う子どもだった。そんな日曜日のお父さんが実在するのかは知らないが。


母からどこへ行くか、何をするかについて説明をされるものの、車内は盛り上がりに欠ける。


父が話さないからだ。


普段から無口な父は旅行中もまったく話さず、お世辞にも楽しんでいるようには見えなかった。
時には家族の輪からも離れて歩く父が子どもながらに心配で、家族の輪と父の中間くらいの距離を歩くようにしていた。


そうしてよく迷子になった。




私は眠るのが大好きな子どもで、とりわけ車の中で眠るのが好きだったから、私にとって旅行は、いつもより長く車で眠れるイベントだった。


そして、楽しそうにしないと母から怒られる理不尽なイベントでもあった。




今なら、母の気持ちが痛いほどわかる。


子どもたちを楽しませてあげようと、きっとワクワクしながら計画を立ててくれた母。
人を喜ばせたり驚かせたりするのが好きな人なのだ。


それが全然盛り上がらない。


夫が意欲的に旅行に参加しない。
子どもたちも思ったより楽しんでない。
というか、つまらなさそう…。


私が母でも腹が立つ。



私を含む兄弟みんなが『あれをしたら?』と母に言われればやり、『これを食べよう』と言われれば食べる。自分の意思のないあやつり人形のようだった。



母は、『あれがしたい!!!』『これ食べたい!!!』とはしゃいでほしかったのだろうな。


家族みんなで楽しみたかったのだろうな。



しかしながら、子どもは大人をよく見ていると思う。
本当は来たくなかったのに無理やり連れて来られたのかな、と心配になるほどまったく話さない父と、盛り上げようと不自然なほど必死な母。



楽しむというより、空気を読まなければならないような雰囲気を感じていたし、その頃にはすでに母からの愛情を疑いはじめていた私は、旅行というものへの認識をこじらせていくことになったのである。


最近まで気がついていなかったのだけれども。





本田晃一さんという方が、『正解がほしいときは安心感がほしいとき』だと仰っていた。


なるほどなあ、と思った。
私は、“楽しめているか”不安だったのだな。



『みんなと同じように楽しいと思わなければ。』


自分がどう思うかよりも、周囲の声にばかり耳を傾けてきた私は、旅先で”楽しい“と思えない自分にひどく怯えるようになった。
みんな楽しいって言ってたのに、同じように感じないなんて…私の心はおかしいのではなかろうか。



行く場所のせい?
私がコミュニケーション能力がないせい?
いったい、私の何が問題?



そうやって、なぜみんなと同じように出来ないのか、間違い探しが始まるのだった。




私はいろんなことを知らなかった。



元々、旅行に対してネガティブなイメージを自身が抱えていたこと。


みんなが楽しいと言うからといって、同じように楽しいと思えなくてもよかったこと。
オカシイのではなくて、考え方や好みの違いだったのだ。



私が耳を傾けるべきなのは世の中一般的な意見ではなく、私が楽しくないと思った理由であり、その理由の中にこそ、私が楽しいと思える旅へのヒントが隠れていたのである。



そんなシンプルなことに気がつくまでに、30年かかっていた。











旅のエッセイや小説は、自由さよりも“ワクワク”を与えてくれる。
動画より文章のほうが、どんな人も旅上手に見えてくるのは、そこに想像という余白があるからなのだろうか。



本を読んでいるときの脳内では『ああ、いいなあ。私も行きたいなあ。』が延々と繰り返されているし、次第にそれが『いつか私も行くんだ!』という決意に変わると、まだ予定もないのにドキドキしてくるのである。



遠足前夜のような心境になり、ドキドキしすぎてとても読みすすめられる精神状況ではない。


ソワソワする気持ちを落ち着かせるべく一旦本を閉じて室内をウロウロ、謎の緊張からトイレが異様に近くなり、何度もトイレに行きながら思う。


何やってんだろ、私。








さて、このように日々、多方面から旅へのモチベーションを上げているわけだけれど、実際に行くとなると話が変わってくる。




なぜなら私は臆病者、だからである。






ある日、夫が言った。




『ねえ、次は韓国に行こうよ。』





私の臆病な心臓がきゅっと縮こまった。


行きたいと行きたくないが同時に押し寄せ、しなくてもいい心配事が次々に浮かんでくる。


おしゃれで可愛い人がいっぱいだから、浮いてしまうかもしれない。
服、買ったほうがいいかな?


韓国のカフェに行くの夢だったんだけど、行くの想像するだけで緊張して吐きそう。行けるかな?あ〜でもやっぱり行かなくていいかも!?



どうしよう。なんかいろいろどうしよう。


キム・ゴウンとコン・ユに会っちゃったら、私はいったいどうしたらいいの…。  




あああ、無理!!なんか無理!!!










嬉しさと楽しみと同時に、不安となんかよくわからない恐怖もやってきて、1人おろおろする私と、一切の無視を決め込む夫。




これが旅前の我が家の光景なのであった。






おろおろしながら、私は思った。




美容院を予約しなければ。


1年以上放置したこのボサボサ髪で、キム・ゴウンとコン・ユに会うわけにはいかない。

自意識過剰が散歩しながら理想と現実について考える



私は、ただ自分の人生を楽しみたいのだ。


楽しめる自分になりたいのだ。




ふと、そう思ったのだった。




少し歩きたい気分になり、ちょうど期限の迫った払込票を見つけて、コンビニまで歩いて行くことにした。






むわっとした湿気た空気。


セミの鳴き声と鳥のさえずり。


草と、土の香り。




夏をダイレクトに全身で感じたのは、随分久しぶりな気がする。





私は体力がない。すぐ疲れる。


だから、この乏しい体力でたくさんのことをこなすためには配分を考えなければなず、必然的に移動手段は、比較的体力が温存できる車になる。




ちょっと歩きたい気分だなあと思っても、『でもここで歩いたら、疲れてその後何もできなくなるかもしれないよなあ』とか、『車で行ったら30分くらいで帰ってこれるんだよなあ』などと考えて、結局歩かない。




“ふら~と出かけて、たまたま見つけた素敵なカフェでお茶をする”といったことを、日常のひとコマに取り入れたい。


そういう生き方ができる人に、私はなりたい。




ただ現実の私は体力もなければ、いざ歩けば競歩並みの早歩き、のんびりとした時間を楽しむことさえ、下手くそなのだった。






そんな私が、歩きたいと思って歩いたのには理由がある。


お腹のあたりがずーんと重くて、何にも集中できなかったからだ。




何も手につかなさ過ぎて、いろんなことがどうでもよくなった。


そして思ったのだ。
こうなりゃ時間を無駄にしてやる!と。






これでもかというほど、ゆっくり歩いた。



自分でさえ、私はいったい何に追われているのだろうかと考えるほどに、私は常に急いている。急いているから、早歩きになる。時々、足が身体についていかなくて、前傾姿勢で歩いている。


昔、同じような歩き方をしている人を見かけたことがある。
すごく格好悪かった。
その人を見かけてから、歩くときは2分に一度、上半身と下半身のバランスを気にするようになった。
その人には感謝している。





ちんたらちんたら歩いていると、手持ち無沙汰というか、何をしたらいいのかわからなくなってくる。


いや、まあ、歩いているんですけどね。




散歩が好きな人はいったい何を楽しむのだろうか。




やっぱり景色だろうなと、空を見上げてみる。


うん、綺麗。



晴れているけれど雲が多いおかげなのか、太陽が陰っている時間が長く、歩きやすい。


曇り空とは違って“晴れ”の軽やかさもちゃんとあって、ついてるなと嬉しくなった。






空ばっかり見てると怪しい女だと思われるかもしれないから、キョロキョロする。


『“散歩を楽しんでいる”という自分』をゴリゴリに意識しながらも、全然意識していないですけど?自然に散歩を楽しんでますけど?感を出す、自意識過剰の散歩道。





意識したことなかったけど、草木の香りもひとつじゃないんだなあ。


そんな気づきもちょっと新鮮である。


どの香りをかいでも、小学校の帰り道の記憶のピースに結びつくのが面白かった。




キョロキョロ、クンクン。


充分怪しい奴なのだった。






小さいながらも本格的な畑の一角に、何十本ものひまわりが肩を並べて咲いている。




ひまわり。


太陽に向かって咲く花。




密集しているひまわりか、切り花のひまわりしか目にしたことがなかったのだが、最近、1本ずつ等間隔に配置された4、5本のひまわりを見かけたのだ。




細長い茎がひょろりと空へと伸び、てっぺんには大きな花が乗っかっている。


支えはないはずなのに、どのひまわりも凛と背筋を伸ばして咲いていた。




私は、思わずぎょっとした。


その姿は、ただただ奇妙なのだった。


ひょろりと佇むその姿はどこか頼りないのに、圧倒的な存在感。
背丈はもしかしたら、私よりも高いのではあるまいか?
そのうちひょこっと土から足を出し、歩きだしたりしないでしょうね。








奇妙だな、と思いつつ、しばらくそのひまわりたちから目が離せなかった。






そうか。


おまえたちは、1人で立っていたのだな。
密集していようとなかろうと、己の力で、凛と咲いていたのだな。



このひまわりは生きている。
そう強く感じたのだった。




こんなにも魅了されたのは、きっと、そんなひまわりが眩しかったから。


今の自分が『自立』できずにグラグラしているから。





5、6年前は、一人でも外食したり、気になったカフェに行ったり、買い物へ出かけたりしていた。
それは自然に、ではなく、一人でも好きなところへ行ける自分になりたい、と思ったからである。


リハビリに近いものであった。



緊張しながらも、“行けた” “食べたかったものを食べられた”といった成功体験を繰り返し、フットワークもそこそこ軽くなっていたし、『新しい場所へいく』『行きたいところへいく』ことへの免疫がついてきていた。




そんな時、コロナウイルスの影響で外出自粛。


自宅で過ごすことは大好きのため不自由はなかったけれど、『新しい場所へいく』『行きたいところへいく』ことへの免疫がすっかり無くなってしまったのだ。



気がつけば、どこへ行くときも夫を盾にしている私。







行きたい場所へ行けない不満が、夫が一緒に出掛けてくれない!という不満にすり替わる。


夫と一緒に出掛けたいという思いはあるけれど、全体の2割くらい。


あとの8割は、自分「が」、行きたい場所へ行けないという不満なのだった。




その相手が夫である必要は1ミリもない。


夫への不満ではなく、自分自身への不満なのである。




またリハビリをはじめてみよう。
私が行きたいところへ、私が連れて行ってあげられるように。







1人で行けるところを増やしたいわけではないのだ。



私は、ただ自分の人生を楽しみたいのだ。


楽しめる自分になりたい。


そして、楽しめる自分になるために、今はリハビリが必要なだけなのだ。ただ、それだけのことなのだ。





到着したコンビニの店員は、戸惑うほど動作がゆっくりな女性だった。


決して客を誘導しない、恐ろしく受け身な店員だった。




それでも、受け渡しの際はきちんと目を見てくれるのだった。




私が料金を払い終えた後、お会計の列は4人ほど並んでいた。


その店員はまったく動じず、己のペースを貫いていた。




それでも、客の目を見られる人なのだ、きっと悪い人ではないのだろう。


世の中には、いろんな人がいるのである。










とりあえず、ひまわりの根っこがどうなっているのか調べてみようと思う。

心が弱ったときの反応もイロイロですよねと思った話


物事が思うように進まず、夫が情緒不安定になっている。


かれこれ数週間。長い。




聞けば夫はこれまでの人生、挫折を味わったこともなければ、人間関係で悩んだこともなかったという。


人生初めてのどん詰まりを経験した夫は、非常に厄介だった。





まず、元々の気質として悲しみの世界に浸ることが好きだ。


いわゆる悲劇のヒロインの男版である。




そんな男が本当に落ち込んでしまうと、悲しみの世界と現実がごちゃ混ぜになり、その世界から出たいのに出られない、出たいのに出たくない、苦しい、けど心地いい…というカオスになるようだ。


自分の尻尾を追いかける犬みたいに、同じ場所でぐるぐるして苦しんでいる夫の姿を、私はただ見つめるしかなかった。



私自身もこうなのだろうと承知の上で言いたい。


それはなんともバカバカしく、恐ろしく面倒くさかった。




もう勝手にしろ。


思う存分浸っていやがれ。


私はもう知らん!こんな奴、放置だ、放置。


私は冷たい人間なのだ。それがどうした!






と思っていたのに、この男、そんなに単純ではなかった。







心が弱っていると、些細なことでイライラする。


いつもは流せる事柄が妙に引っかかってしまう。流せない。




私もこれまで、そのせいでたくさんの爆発を起こしてきた。




けれど同時にこういった類の怒りは、案外すぐに鎮火するものである。
”なんであんなに怒ってしまったのだろう?”と自分でも恥ずかしくなって反省もする。






だから夫が私にひどい言葉を言うたびに、”心が弱っているときは仕方ないよな”と自分に言い聞かせていた。


けれどその言葉を浴びるたびに、心に、お腹に、頭に、肩に、その言葉がずーんと溜まっていく。
全然消えない。そもそも燃えていないから、ずーっと残る湿った塊。







なんだろう、この不快感。






…罪悪感だ。


1週間ほど経ったとき、ふと思ったのだった。




夫はイライラはしていない。
だって怒ってはいないのだから。




ただ、”夫は、私が私じゃなかったらこんなに悩まずにすんだのではないか…?”と、こちらがうっかり考えてしまうような言葉を発するのだ。




夫は「ごめんねえ、僕と一緒にいるせいで寂しい思いさせてるよねえ。。。」と繰り返しながらいろいろ言うわけである。





冷静に夫が言っていることを要約すると、”僕は変わらないけど、君は僕に合わせられないんだよね?それじゃあ僕たち合わないよねえ”といった内容なのだ。


こんなただの横柄な言い分に、寂しそうな笑顔で”ごめんねえ…”と繰り返されると次第に思ってくるのだ。


『私が気にしすぎなのでは?私のせいなのでは?』と。


謝っているのに、相手を加害者かのように仕立て上げる巧みな技。
私さえ我慢できれば何もかも解決するような気がしてくる、一種の洗脳ではあるまいか?






じわじわと逃げ場をなくし、ゆっくり、ゆっくり息がしにくくなるように…


この男は、そうやっていたぶるような言葉を投げつけては、相手を怒らせる。




そう、怒らせるのだ。


自分が怒るのではなく、相手を不快にして怒らせる。



自分で怒らないから、そんなに長引くんだよ!!!






恐ろしく厄介な男である。


なに、メンヘラなの?それともサイコパス?両方?










近くにいる人の精神状態の影響を受けやすい私は、お腹がずーんと重い日々を過ごしている。




”私が悪いのかな”


”いやいや、そんなわけあるかい!”


”でもすごく落ち込んでるし…”




なんてことをグルグル考えていて、やっと気づいた。






『なんかおかしくない?』





私の脳内に危険を知らせるサイレンが鳴り響く。




”シキュウ メンヘラ サイコパスオトコカラ ヒナンセヨ!”




夫と物理的に距離を置く。


必要以上に顔を合わせない。




夫の方も、口を開けば傷つけてしまうという自覚もあり、それは本意ではないようで、適度な距離感が保たれた。






その間私は、どうしたらいいのかわからずオロオロした。




とりあえず、爪を磨いた。


(爪を綺麗にすると運気があがるって何かできいたから)




とりあえず、鏡と水まわり、床をいつもより意識して清潔に保った。


(運気を上げる掃除場所の上位だったはず)




オロオロしたあげく、運気を異様に気にしていた私なのだった。


誰も壺とか売りに来なくて本当によかった…。






気分転換にと、気になったカフェのモーニングに一人で行った。


緊張で汗びっしょりになったけど、コーヒーが美味しかった。




精神が不安定になればなるほど夜更かしして寝不足になり、さらに精神が不安定になるという悪循環に陥りやすい事を自覚している私は、恐ろしく早寝になった。




なんたって、身近にメンヘラ・サイコパス男が控えていますから。


いつ攻撃されるかわかりませんから。




野菜も積極的に食べ、適度に自分を甘やかす。


気がつけば、いつもより丁寧な生活を送っていたのだった。




お腹のあたりのずーんとした重みは、消えないままだけれど。






数日後、滞っていた物事の1つが動き出してご機嫌になった夫。


まだ完全ではないけれど、9割回復したのだとか。




そのテンションのうざいこと、うざいこと。




なんなんだ、そのテンションの乱高下。


ジェットコースターか?一人テーマパークか?


巻き込むんじゃないよ、こちとら豆腐メンタルなんだよ、このやろう。






テンションの上がった夫は何故か花火を買ってきていて、今からやろうとうるさい。




時刻、朝の8時半。


場所、リビング。




ふざけんじゃねえ。